砂の女 安部公房 読書感想 

今回は、先日読んだ安部公房の代表作「砂の女」について読書感想を記す

「砂の女」は20世紀文学の古典文学に目されるなど、世界的に有名な作品である。
1967年に最優秀外国文学賞も受賞した。

あらすじ

教師の男は、休暇を利用して旅に出る。昆虫採集とりわけ新種を発見することに興味を持っていた男は、ハンミョウを採集するために砂漠に向かう。ハンミョウは、奇妙な飛び方で小動物を巣から誘い、砂漠の奥に迷い込ませて、その死体を餌食にするのだという。

男は砂漠の奥地で部落を見つける。昆虫採集に夢中だった男は部落の人達を気に留めなかったが、民家に滞在するように勧められ、縄梯子によってのみ外界とつながっている、砂の穴の下にある家の寡婦と一夜を過ごす。が、翌日にはその縄梯子はなくなっていた。

男は、とりあえずは穴の中での女との生活を受け入れながらも、いくつかの方法で脱出を試みるが、ことごとく失敗した。男は、半ば諦めにも似た気持ちで女と夫婦のような生活をし、偶然つくることができた溜水装置の研究にも没頭する。

そうこうしているうちに、女は妊娠し、街の病院に入院することになった。女が連れて行かれたあと、縄梯子はそのまま吊るされていて脱出の機会があった。ただ男は、溜水装置の研究をすることやそれを誰かにはなすことへの衝動に駆られ、囚われていた穴から逃げようともしなくなっていた。

主題:自由について

この著作の主題は、「自由」についてだと思う。「砂の女」に付いて阿部は、以下のように語っている。

鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。— 安部公房「著者の言葉――『砂の女』」

あらすじの通り、男は外界での自由を求めたていたにも関わらず、最終的に砂の穴の中の自由に最終的に執着する。物語を通して、前者の自由と後者の自由の相対的な関係が変化したしるしである。

思うに、双方の自由が本質的には何ら変わらないものであることを男が無意識のうちに認めたからではないだろうか。

けいれん、同じことの繰り返し。いつも、別なことを夢見ながら。身を入れるも相も変わらぬ反復、食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること

砂の穴の中に入ったときに切望していた外界での自由も、実際は、寝食、労働、性交などの反復に過ぎず、「砂の掻き出し」が「学校での教育」に代わっただけである。日頃繰り返される生活もまた、繰り返される砂との戦いと相違ない。

男は次のように述べる。

人生に、よりどころがあるという教育の仕方には、どうも疑問でならないんですがね。

サルトルは、「実存は本質に先立つ」とした。創造する神が存在しないのならば、人間はその本質を決定されることのないまま、(本質を得ることのないまま)この世界に存在する。今、この世界に存在していても「私達は何なのか」とか、「何を希求すべきなのか」とかそういう人生の拠り所は決して所与のものではないのである。

このような実存主義を軸とした、自由の刑に処された世界観における「生き甲斐」をテーマにしたのがこの作品だと思う。男は、絶えず砂のように流れる時間の中で、その意味のない反復のリズムを少しでも変えられるものとして溜水装置の研究に精を出す。

その意味を与えられずに、絶え間なく反復していく人生の中で、自分という実存がその反復運動に対して何らかの作用を与えられることに男は意味を見出したのではないかと考えた。

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